こんにちは、Dancing Shigekoです!
晴れた日に合いそうな映画と思って鑑賞。
今回は映画『ライ麦畑で出会ったら』を紹介します!
[基本情報]
原題:Coming Through the Rye
監督:ジェームズ・スティーヴン・サドウィズ
脚本:ジェームズ・スティーヴン・サドウィズ
製作:ジェームズ・スティーヴン・サドウィズ
テリー・グレナン
スタン・エルドライヒ
サラ・エリザベス・テイミンズ
製作総指揮:ジェフ・スティーン
アレクサンドル・ウッドワード
音楽:ヒース・マックニーズ
ジェイ・ナッシュ
グレッグ・ラフォルテ
撮影:エリック・ハート
編集:トッド・ホームズ
製作会社:レッド・ハット・フィルムズ
リヴァー・ベンド・ピクチャーズ
配給:イーモン・フィルムズ
サミュエル・ゴールドウィン・フィルムズ
上映時間:97分
[登場人物]
ジェイミー・シュワルツ:アレックス・ウルフ
クランプトン高校3年生。卒業研究として、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を舞台にしたいと考えている。
意外と大人しい。
ディーディー:ステファニア・ラヴィー・オーウェン
クランプトン高校のメンバーと一緒に舞台をしている女子高生。ジェイミーを気にかけている。
おとなしそうな表情の割に、大胆と言うギャップに驚かされる。
J・D・サリンジャー:クリス・クーパー
『ライ麦畑でつかまえて』の作者。人と会うことを避けている。
自身の作品に強い思いがあるのが伝わってくる。
[内容]
ジェイミーは『ライ麦畑でつかまえて』を劇にしたいと考えていた。その許可を得ようと作者のサリンジャーと連絡を取ろうとしていた。手紙を出したらいい、と助言を受けて用意していた手紙。その内容を高校のクラスメイトに読まれて、嫌がらせを受ける。ジェイミーは高校を飛び出していく。そしてサリンジャーに直接会って相談しようと考える。
出発する前に、憧れの女子を見納めしておこうと彼女の通う高校へ行くと、同じ高校に通うディーディーから声をかけられる。高校を飛び出したことを話すと、サリンジャーがいると言われるニューハンプシャーまで乗せて行ってくれるという。
そしてジェイミーはディーディーと一緒にサリンジャーに会いに行くのだった。
[感想]
作家の許可を求めて旅に出る高校生を描く作品。
<いろいろとすごい>
・許可を取ろうとする姿勢
ジェイミーが『ライ麦畑でつかまえて』の主人公に自分と同じものを重ねている。そして絶対に劇にしてみんなに知ってもらうべきだと考えている。主人公を演じられるのは自分だと考えている。この辺りの感情移入できる部分が、まずすごいと思うけれど、感動した作品を演劇にしたいと考える発想にも驚き。
しかし1番感心したのは、演劇にする以上、著者の許可を取る必要があると考える部分。劇にして商売にしようと考えているわけでもないのに、わざわざきちんと許可を得ようと考える部分がジェイミーの真面目さ、それでいて作品に対する敬意を表せてしているのだと思った。
高校三年生(アメリカは三年生ではないのか?)でこれだけしっかりしていて、情熱を持っているということに、自分にはないものを見せられていて、羨ましくも思えた。
・直接会おうと考える発想
そう言った信念はすごいと思ったけれど、なんとかして連絡を取ろうと思っているところがすごい。1960年代、どれだけ情報が正しく調べられる時代だったのか、想像できない。それでも今ほど簡単に調べられるような状況ではなかっただろう。
なんとかして居場所を突き止めようとアンテナを張っていたから、タイムズで取り上げられている特集の記事に住所を見つけることができたのだろうと思う。ニューハンプシャーなら行ける、と思う辺りにも凄さがある。
そこで会いに行こうって思うだろうか。それだけの情熱を注ぎ込めるのだから、若さゆえなのかもしれない。この発想、なかなかにすごい。
・遠路はるばる尋ねに行く行動力
そして驚きは、高校生なのに車持っているディーディーと、自分のことではないにも関わらずニューハンプシャーまでジェイミーを送ってあげるという行動力。どれだけ離れていると思って考えているのか。何時に思い付いた発想だったのか。ディーディーがきちんと両親にそのことを伝えて許可を得てから出かけていくという展開もしっかりしているし、すごいと思う。こっそりいくのではなく、その後、約束の日までに帰られないとわかったら、ちゃんと連絡を入れるあたりも、ディーディーがしっかりしているというのも地味に描写されていたと思う。
何にしても高校生で、数百キロも離れた場所に高校生だけで行こうとする発想。そういう間隔は少なくとも自分にはなかったから、とにかくすごいと思ってしまう。もし、自分にもそう言った行動力があったなら、今頃どうなっていたのだろうか。
<信念がある>
・必ず会うという思い
いざ、勢いでニューハンプシャーに着いたもののサリンジャーを知っている人になかなか会えない。これだけ広大な土地で家と家との間隔が離れているような社会では、どれだけ近所付き合いというのがあるのか。知らない、という反応は自然なものなのかもしれない。
それでもジェイミーは必ず会えると信じている。知らないと言われても、知っていて口止めされていると、解釈して突き進む。
その結果、正直者の子供たちがサリンジャーの家を教えてくれる。そしてなんとかサリンジャーに会うことに成功する。
本当にいるのだろうか、そんな不安がよぎりそうな中を信じて探し続けたジェイミーの思いはなかなかにすごい。
・振り向いてほしいという思い
ペンシルベニアからニューハンプシャーまでの道中、ディーディーは協力する姿勢を見せつつも、自分の思いをそれとなく伝えようとしている気配を見せる。しかしジェイミーは鈍い男の子みたいで、質問の真意を掴めていない感じ。
休憩で立ち寄った草原では、キスをしてほしいと大胆にお願いしてみたり、1日で辿り着けずホテルに泊まることになった時も、ベッドがひとつしかなかった時も全く動じることなく、しかも何事もないかのように服を脱いでベッドに入っていく。年頃の男の子がいるにも関わらず、そこまでの行動をとって見せるのは、ディーディーがジェイミーに好意を抱いているからなのだと、わかりそうなものだけれど、ジェイミーは気づかない。
それでもめげずに自分の思いをアピールしているように見えるディーディー。この辺りは純粋だなぁと思ってしまう。高校生だからだろうかな。
・自らの作品に対する思い
サレンジャーのところに遠路はるばるやってくる高校生がいる。何をしにきたのかと尋ねるとサレンジャーの作品を劇にしたいと言う。一切の解釈を加えずに99%サレンジャーの言葉を脚本にしたと言う。それでもサレンジャーは、誰かが役を演じること自体が解釈だという。女のことを演じたら、それが解釈だという。そう言った解釈を入れられたくないのだという。
作家というのは、自分の作品にイメージを持っている訳で、そこに自分とは違う解釈を入れられるのが嫌なのだと伝わってくる。実際には、その作品を書くときにイメージしていた人物がいるのだろうけれど、その人に演じてもらうことができないと分かっているからこそ、解釈を入れられるのが嫌なのだと思う。
遠路はるばるやってきても、自分の信念を曲げずに、演劇にすることを許可しないサレンジャー。譲らない辺りに自分の作品に対する愛を感じた。そういう人だからこそ、いい作品を残せるのだろうとも感じた。
<道は続いていく>
・アメリカの郊外
ペンシルベニア州クランプトン高校は木立の中に門を構える場所。門をくぐって中に入っていくと高台はグランド、緑の芝生が一面に広がり、広い校舎がある。校舎はせいぜい2階建、食堂や教室、テーブルの間隔は広めに取られている感じで、ゆとりを感じる環境。
その高校を飛び出して、サリンジャーが住んでいる(かもしれない)ニューハンプシャーに向かう。その道のりはどのくらいか?片道4時間と劇中で言っていたけれど、それが高校からニューハンプシャーまでの道のりだったのか。それともジェイミーの実家があるニュージャージーまでの話だったのか。
調べてみると400マイル(詳細の場所は分からないから大体だけれど)ほどの距離。640キロもあるその土地まで車で行くのだからすごい。さらにすごいのは、そこまでの道のりの景色。とにかく一本道。周りには広大な土地。畑というのか、草原というのが正しいのか。
ニューハンプシャーに到着してからは、少しずつ家が出てくるけれど、どの家も広々とした土地にぽつんと建っている。こういった土地で生活していたら、都会の喧騒は落ち着かないだろうと思う。
舞台は1968年頃とされていて、その時代だからなのかもしれないけれど、とにかく広大な土地という印象が残る映像が続いた。そして、その長閑さが羨ましくもあった。ただひたすら草原の中の一本道を走り続けるのも、一生に一度くらいは体験してみたいと思った。
一つの小説をめぐる思いが伝わってくる作品だった。
鑑賞日:2023年3月19日
皆様の感想も是非お聞かせください!
それでは、また次回!
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